サンダルウッドの丘の家より ♯9 / 山崎美弥子

第四章 島の風/ウア・ノア


 たまらかいが三歳になり、きらかいは、島の南のカウナカカイ小学校のキンダーガーテンに通うようになりました。 水曜日の放課後、十三マイル東にあるフラ・ハラウ・キロハナまで、海岸線をなぞるようにクルマをとばします。 こどもたちのフラ・レッスンに間にあうよう。わたしたちはいつも遅刻寸前。ライトグリーンが水分を多く含んだ筆で、ひとつの絵を構成する要素へ変容する時のような線が、視界の脇にずっと続くスピードのハイウェイ。ダーク・シェイド・ブルーのピックアップ・トラックを追い越して、

「あ…!」

衝撃を感じて、わたしときらかいとたまらかいの三人は、揃って声をあげました。

「フラットタイヤ(パンク)だわ…。」

不安な気持ちを抑えながら、クルマを腰の高さまで草の茂る測道に停車。

「電話も無いしパパ(レビー)にも連絡できないわ。これじゃ、カ・フラ・ピコの練習に間にあわない…。」


カ・フラ・ピコ。それは、フラの中心という意味のオレロ・ハワイ(ハワイ語)。決まって夏のはじめの頃、この島で開かれるフラの発祥を祝い、伝承する祭の呼び名。ライライ一族が、モロカイ島の西に位置するカアナの丘で舞ったのがハワイにおけるフラの起源であると。そして一族のひとりであるラカが古代カヌーで島々を渡り、後世に伝え残したのが、現代のわたしたちが踊るそのフラの源であるという。カ・フラ・ピコ、フラを踊る日。フラを思う日。それはフラ・オラパ(フラダンサー)にとって、とても特別な日。深夜から夜明けにかけて捧げられるフラの神秘…。…どうすることも出来ず、半ば途方に暮れながら、そんなことをぼんやり考えていると、さきほどのダーク・シェイド・ブルーのピックアップ・トラックが、こちらへ引き返して来るが見えたのです。止まったわたしたちのクルマを一度は追い越し、でも、引き返して来たのです。

「ママ!あれはこのあいだのアンクルのトラックよ!」

きらかいがそう言いました。荷台には三匹の真っ黒い犬。大きいの、ちっぽけなの、そのまんなかくらいの。と一緒に、 輝くブラウン色の肌をした男女も座っていました。ヘーゼル色の瞳。

「アンクルって…?」

ハワイアンのやせがたの老人が、その背を丸めながら無言で運転席から降りてきます。よれよれのジーンズに、洗いさらされ青ざめた格子のシャツはボタンを開け放し。運転中なのに片手にはビール(!)。それでいて、聖者のようなオーラをまとった老人。まぶしい、でもとてもやわらかい、ひ、か、り…。

「あぁ、アンクル・ジューンね…!」

 

 …そう、アンクルに初めて会ったのはほんの二月前。

「あなたの名前は?」

「ジューンだよ。」

「ジューン(六月)、ジュライ(七月)のジューン?」

「そうだよ。ニックネームさ。」

と言って笑ったアンクル。あの日も、水曜日。キロハナで教えるクム、アナケ・エイプリル(四月)ケ・アロハ。彼女のフラ・レッスンはいつも水曜日。そうあれはレッスンの帰り道、十三マイルのハイウェイを わたしたちは引き返していた。 東から西へと。それは、夕焼けの焦げ色が空に現れ始める直前の時間。島のわずか数えるほどのレストランからもらう、使用済みのストレート・ベジタブル・オイル(てんぷら油)をリサイクル燃料として走るわたしたちのオンボロ・ メルセデスは、フィルターがクロッグドアップし(詰まって)測道に停止。そう、二月前のこと、この老人はダーク・シェイド・ブルーのトラックをわたしたちのメルセデスの隣に止めて窓越しに言ったのです。

「アーユーオーケー?(大丈夫か?)」

「オーケーよ!どうやって修理するのか知っているから。」

レビーの特訓で覚えた修理法がわたしのアイディアの中にあったのです。

「…オーライ。」

老人はそう言って、静かにまたクルマを走らせて去っていきました。ところが、小さい娘たち二人を待たせながら、ボンネットを開けて挑戦した唯一知る修理法が問題を解決しないのです!あたりには誰もいません。信号も無い島、こんな時に限ってクルマは一台も走っていません。広がるのはキアヴェの木々と草むらばかり。夕日は、そんな私たちを待ってはくれずに、海に向かって刻々と、まるで何かに急いでいるかのように滑り落ちてゆきます。この時も、わたしは途方にくれるしかありませんでした。すると、ダーク・シェイド・ブルーのピックアップ・トラックが遥か遠くから、引き返して来るのが見えるではありませんか。さきほどのハワイアンの老人のトラックがわたしたちのもとに舞い戻って来たのです。

「ほんとうに大丈夫なのか?」

「…え、いいえ。実は大丈夫ではなくて…。」

こうして二月前に、わたしときらかいとたまらかいとを救ってくれたアンクル・ジューン。そのアンクル・ジューンが再び、わたしたちを救うために、今まさに現れたというわけなのです。今度は仲間たちを連れて。パンクしたフラットタイヤは瞬く間に交換されました。かつて島のクルマの修理工だったというアンクル・ジューンがその甥っ子だと名乗る荷台の男性に指示を出して。もうひとりの荷台の女性は、甥っ子の恋人で三匹のクロたちと見物を決め込んでいます。…こんな風な、あたりまえの島の奇跡。

…二月前、最初にアンクルにわたしたちが救われた日、知恵を働かせてもなおらなかったクルマを残して、アンクルのダーク・シェイド・ブルーのトラックで、わたしと娘たち二人は我が家へと無事に生還するという結末を迎えました。その車中でわたしは、この見知らぬ「六月」という老人のまわりを包みこむその空気の美しさにこころを奪われていました。老人は何も語らず、ただわたしたちを救っている。どうしても、このよれよれの聖なる老人の秘密を知りたくて、わたしは思いつく限りのことを質問しはじめました。でも、何を聞きたいのかは自分でも本当はわからなかったのです。たわいもないわたしの質問のたび、しばしの汚れなき沈黙を彼は生み出し、そのあとに最小の言葉数で、それに応えるのです。そうやって、アンクル・ジューンがハラヴァで生まれ育ったことを、わたしは知りました。紀元前二千年からのヒストリーを持つと語り継がれる、ハワイ文明発祥の地であるとも言われる、ハラヴァ渓谷。

「…ハラヴァは…、この島は…変わったことでしょうね?」

アンクルは頷きました。いいえ、モロカイはずっと変わらないと言われている島、でも彼にとってはそうでは無いのでしょう。

「どういうふうに変わったのですか?」

「…どうって、言葉では言えないさ。でも、変わった。」

わたしは彼の言葉を、ひとつも漏らさず覚えておきたいと感じました。いいえ、彼のなんていうこともない言葉がはこぶ、そのマナ(エネルギー)を。

子沢山の島のファミリーと、ビーチ・ピクニックの計画を立てた日のことでした。かつてわたしとレビーがふたりでさんざん苦労してセイル・ボートに設置した風力発電の調子が思わしくないと、

「一日、船の点検になる。」

レビーは、そう言ってひとり港へ去りました。残されたわたしときらかいとたまらかいとは、準備に手間取り、ランチをとうに過ぎたくらいの時刻に約束のビーチへと到着。ロコ・イア(魚の養殖場)寄りのビーチのパーキング。赤い土の上に、ベージュの色のニウ(ココナッツ)の実や、先端がイエローに乾いた深緑色の椰子の葉が落ちています。波に近いほうにテーブルを出したロコのファミリーは、そろってメレフラを歌ってる…ウクレレを弾きながら。何台かのピックアップ・トラック。わたしたちのクルマは、木陰具合をジャッジする観点によるベスト・スポットを見つけ出そうと、決して広大なわけでは無い、水たまりのパーキングエリアを何度も回転していました。その様子は、こころもとなく、困り果てたようにさえ見え、滑稽そのものだったに違いありません。最もさざ波を見つめるためにいいあたりに止めて、まわりを運転手とその仲間に取り囲まれたダーク・シェイド・ブルーのトラック。ただゆっくりと、週末の午後の時間をエンジョイするこの島人たちは、自信に満ちたゼスチャーで「こちらへ止めなさい」と。ぐるぐると回るクルマの、見知らぬわたしを助けようと、伝えてくれたのです。

「ここが一番いい場所なのだから。」

と、ゼスチャーは語っていました。そして、そのゼスチャーは確実に安全なパーキング・スポットへと、絶妙にわたしたちを導いたのです。そして今回も、気がついたのはきらかいでした。

「ママ!アンクルよ!」

「え?アンクルって?…アンクル・ジューン?…似てるわね。でも違うわ。」

顔もよく見えません。

「…ママ!アンクルよ!」

そう、もう一度きらかいが言うのです。

「みんな手招きしているし…、じゃあ確かめに行ってみましょう。」

クルマを降りて、眠ってしまったたまらかいを抱きかかえて、ダーク・シェイド・ブルーのトラックにわたしは歩み寄りました。 確信を持って進むきらかいのあとを追うように。

「…ヘイ!ベイビー!」

それは、六月の老人(ひと)でした。三度目の奇跡。なぜこのひとはいつもわたしたちを救うのでしょう…!救う役の者と、救われる役の者とのキャスティングが、この星の上では決まっているとでもいうのでしょうか?アンクルと同じジェネレーションの、白いショートヘアのハワイアンの老女がふたり。それから、彼女たちの息子、そのくらいの年代のやはり島の男性がふたり。わたしたちに声をかけます。たわいない、こころやさしい言葉のやりとり。アンクル・ジューンは皺の中に微笑みをうずもらせて、ただ、しずかにわたしを見つめています。

「アンクル、一体全体あなたは、どうしていつもこうして現れるの?」

「…ベイビー。いつもそばにいるんだよ。」

その不思議な言葉の意味もわからず、小さな自分の娘たちの前でわたしは泣いた。六月の老人(ひと)に抱きしめられて。



 さざ波は遠く、海と空色に染められたグラデーションが、トラックの車体に映り込んでは光る。 ダーク・シェイド・ブルーの散り散りの断片はまるで、飛びちる青いシャワーのように。



★この連載は、毎月新月と満月の日に更新します。


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