サンダルウッドの丘の家より ♯16 / 山崎美弥子


第六章・四 この日々の行く末に/アウト・オブ・ザ・ブルー


 島の午後、 空っぽの部屋。サンダルウッドの丘の家で、数日をわたしたちと一緒に過ごした旅人が去ったあとのその部屋に、わたしはひとり腰かけてみる。…どれほどの時が経ったのでしょう…?気がつくと居眠りをしていたようです。ふと目覚めると、感じる、窓からわたしを覗きこむ眼差しのような白い光。 部屋の外、揺れるハイビスカスのかたちをした影絵。ベッドサイドのランプシェイドには、旅人が残していった、ふちどりがブラウンに乾き始めた白いメリア(プリメリア)のレイがかけられている。その花の香はもう、空(くう)に溶け消えている。眠りの世界から、この「島の日常」という次元に舞い戻る直前の、ヴォイドな時空の隙間。ふたりの自分の娘たちが、笑い声をあげながら階段を駆け下りる音が遠ざかっていく。それはエコーのように。


「何処の子たちかしら…?」


 …自分が誰であったのか、今が何時でここは何処なのか…、すべての記憶が消え去る瞬間。わたしは、理由など必要としない絶対的な「何か」に満ち満たされて、安心した気持ちで、ただその宙に浮かんでいます。ほんの束の間、自分の身をおくことのできる不思議な時空を漂う…。その時に再び思い出したのは、かつてわたしが大都市(まち)で暮らしていたころ、繰り返し見ていた、あの澄みきった墨色の夢…。そう、あの夢と、このヴォイドな時空とはきっと、繫がっている。


 旅人を優しく包みこみ、せわしない人生の出来事を忘れさせる、休息の楽園へと誘った人肌色のブランケット。その役割を終え、今や無造作に、ただそこに横たわっています。視線をすこし上げる。ベッドの上の壁に、海と空の絵…。その絵の「奥」を見つめてみる。

 …海と空の境界線を、わたしは絵描いてきました。 人はそれを水平線と呼んでいます。一体全体ほんとうに、そこに「線」はあるのでしょうか。 わたしたちは幾度も、海に船を漕ぎ出して、幾千もの波を超え、その線をめざしては進みました。 確かめるために。本当にそこに線があるならば、この手で掴めるはずだから。…でも、わたしたちは、船上で暮らしたあの日々の中で、一度たりとも、その線を掴むことはできませんでした。日は沈み、そしてまた昇りました。…青、青…青は、青以外のあらゆる色へと変貌しました。移り変わり続けました。 そうです。終わることなく。


「境を知らぬ。終わりを知らぬ。」


 声なき声でわたしに告げた、線も無い、終わりも無い世界。それは…、 見覚えのある風景…。そうです。わたしが少女だった頃、境界線など無い、一切の条件というものが存在しない世界を、すべてのものが無条件に受容される世界を、神様に見せてもらったことがあったのです。それが、千年後の未来の風景であることに気づかされたのは、大人になってからのことでした。今、目の前に広がるこの島の海と空の風景は、とてもよく、似ている…あの、めくるめく愛おしい未来に。たった一度だけ垣間見ることができたあの風景を、ただのもう一度見たいと。砂漠で水を欲する殉教者のように探し求めていたからこそ、わたしは、辿り着いたのかもしれません。「あの未来」に、よく似た面影を持つ、この島に。

 …千年後の未来は、その実、千年前の過去なのかもしれない。そしてそれは、今という瞬間の中にあるのかもしれない。そう、すべてはもしかすると、ただ「在る」だけなのかもしれない。千年後の未来の風景によく似た、この島の海と空の絵を、わたしはカンバスに描いています。それは、「条件の無い場所(あたたかいところ)」。くりかえし、くりかえし、描き続けています。あの懐かしい、千年後の未来から遡った、千年前の過去の日である、今日というこの日も。


「タヒチに行ってしまうですって…!?」


 フラ・レッスンの朝のこと。突然に舞いこんだ、アンティ・レイラニが彼女の夫であるコネの生まれ育った遠い島、タヒチに移り住んでしまうという、センセーショナルなニュース。わたしの頬にはとたんに涙がこぼれました。 考える間も無く。アウト・オブ・ザ・ブルー。それは「突然」という意味の言い回し。船乗りの、波間の視界のスクリーンに、青い水平線の彼方に前触れも無く出現する、見知らぬ誰かの一艘の船。いつだったかこの言葉に、レビーはそんな光景を語りました。さもなければ、瑠璃で作られた群青の絵の具が、太筆でカンバスの四角いっぱいに塗りたくられた色のストームの中に、ぽたんと落とされたチタニウムホワイト。それは、あまりに突然に。


 「…タヒチの小さな小さな島にわたしたちは家を持っているの。半径たった二マイルの島。山も小さな丘さえも無い。人々の暮らしのすべてが海辺にあるようなところ。そこではみんな、朝から海で魚を網でとってそれを食べて暮らしてる。果実を木からもぎ取ってそのまま食べている。…ゆったりとした日々。そんなふうにあの人と、あの人が一緒に育った人たちといっしょに、生きてみたいの。」


 そう語るアンティ・レイラニに、わたしは言いました。


 「大好きなアンティの望み、それはわたしの望みです。でもわたしは、一生涯この島で、あなたから学びたいと、そして学べると信じてしまっていたんです。あなたは、わたしにとって世界一のフラ・ダンサーだから。」

クムフラの称号すら持とうとしない、隠すものなど何も無いというこの人が、何処にだっている、世界一のフラ・オラパ(フラ・ダンサー)だから。


「なんてことはない。二日ぐらいで戻って来るさ。」


 そこに現れたアンティの夫、タヒチアンのシャイな大男コネ。コネは少し寂しそうな目をしたものの、すぐにわたしの涙をかき消そうとするかのように、唐突なほど大きな声で、冗談みたいに言いました。コネの笑い声があっけらかんと、天を突く棒のように響きます。…確かに…、この瞬間と永遠、あるいは二日と二十年、すべてはもしかすると、そう変わりは無いのかもしれません。…旅人が去った後のあの空っぽの部屋で、居眠りから目覚めて、ふと浮かんだ思いが蘇る…。



   すべてはもしかすると、ただ「在る」だけなのかもしれない。


 ウルトラ・マリンブルーの天空はいっそう深く、今この地上がここちよき海底で、何千メートルも頭上にある海のサーフェイスから、刺さり落ちて来る光の柱たちを、ゆったりと揺られながら仰ぎ見ているかのようでした。ゆったりと。そう、静けさの中で発光する、深海魚たちに寄り添われて。


 波の上は晴天。青を切り裂くようにまっすぐに横切る白い鳥。翼は見下ろしていました。ゆらゆらと光っては揺れる、小さな「ひと」という、わたしたちのすがたを。


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